キリング・ゲーム ジャック・カーリイ

 コミュニケーション障害

キリング・ゲーム (文春文庫)

キリング・ゲーム (文春文庫)

 新作が出る度になにかと話題になるジャック・カーリイの最新作。話題になるのはもっぱら、訳文の一人称が「僕」であることの違和感で、これはおれも未だに納得できない。本作だって主人公カーソン・ライダーに恋人のクレア・ペルティエが「わたしもそろそろ大台」と言う下りがある。大台とは50代のことなので、カーソンは11歳歳下という設定だから、御年39歳ということなんだよね。39歳の刑事が自分を「僕」と呼ぶのはさすがに気持ちが悪い。むろん、カーソンが気持ち悪い男という設定ではない。
 まあ、これは翻訳の一作目が発売されてからずっと言われていることなので、繰り返すつもりはない。つもりはないが、三角和代の訳文はやっぱり稚拙だ。翻訳が下手なのではなく、日本語がこなれていないのだ。こなれていないからリズムが――という話題は此処まで。
 ロバート・B・パーカーのスペンサシリーズみたいに主人公のスペンサーと相棒のホークが滅多矢鱈に強くて、敵が気の毒になってくるような話は別としても、主人公が順風満帆でやることなすこと上手くいくというのも白けてしまう。そうならないために、敵役は曲者を用意して、主人公危機一発という見せ場が必要になる。でも横山秀夫作品によく見られるような、周囲のゴタゴタで主人公が窮地に陥るなんて話は勘弁してもらいたいよ。どうでもいい相手に足を引っ張られて苦労するなんて「クライマーズ・ハイ」も「64」もそれで途中で放り出した。
 閑話休題
 本作でも、カーソンは周囲のゴタゴタにかき回される。上記の優秀なる監察医ドクター・クレアはカーソンの新しいガールフレンド、ウエンディ・ホリデイに嫉妬する。ウエンディはポリスアカデミーの学生で皮肉なことにカーソンの11歳年下。頼もしいチームの一員との関係が悪くなるのは読んでいて哀しくなってくる。いや、それより何より上司であるカールトン・パグス本部長(署長)から徹底的に憎まれて、休職処分にされてしまうあたりも、なんか取ってつけた「災厄」みたいでやり切れない。今回の犯人は異常な連続殺人鬼だけど、カーソンに直接危害を加える、つまり対峙するようなことはないのだ。
 本書の裏表紙に「二度読み必至」と書かれてあるが、もう一度読んでなにを確認しろというのだろう。犯人の動機? それは意外というより、ああ、そういうことねと納得するレベルのものだ。そこで、ふと考えた。この動機、アメリカ人には衝撃的なのではあるまいか。ソシオパスという言葉が何回か出て来るが、コミュニケーション障害の犯人には、こんな「復讐」しか思い浮かばなかった。それがアメリカ人には響いた。アメリカ人と仕事で付き合えば分かるけど、彼らは恐ろしく本質的で、まっとうなのだ。それに比べたら、日本のビジネスシーンに登場する仕事相手は揃いも揃ってコミ障、無意味な自己主張を押し付けるのが優位性の証明だと思っている奴ばかり。
 つまり、日本人にとって、犯人の自己中勝手な行動は、至極一般的なことで驚くに当たらないってことじゃないかな。そんな風に考えてしまった。
 カーソンが陥った窮地は、なんだか一方的に解決してしまってめでたしめでたしとなるのは、たとえご都合主義でも気持ちがいいけどね。
初秋 (ハヤカワ・ミステリ文庫―スペンサー・シリーズ)

初秋 (ハヤカワ・ミステリ文庫―スペンサー・シリーズ)

クライマーズ・ハイ (文春文庫)

クライマーズ・ハイ (文春文庫)

64(ロクヨン) 上 (文春文庫)

64(ロクヨン) 上 (文春文庫)

64(ロクヨン) 下 (文春文庫)

64(ロクヨン) 下 (文春文庫)

死体置場は花ざかり カーター・ブラウン

 文は人なり
 コミさんのことを書き出すとキリが無くなる。
 一面識もないお方だったが、街では何度もお見かけした。それも偶然だが、そのときのことが後年エッセイに書かれていて驚くことしばしばだった。ゴールデン街で沈没した翌日、洗面器タオル石鹸を渡され、呑屋のママに風呂屋に行かされた、その途中を明治通りで見かけた。後年編集者に話したら「コミさんはそんなとこに住んでいないから他人の空似ですよ」と言われたが、たまたまゴールデン街に宿泊した翌日だったのだ。地下鉄に乗って映画館に行く途中も有楽町線で何度かお見かけした。
 ほら、きりがなくなる。じゃあ、後一つだけ。コミさんは本物のヤクザだった。ヤクザっぽいとか喧嘩三昧とか無頼派とか、そんなインチキじゃなくて、盃を交わした本物のテキ屋だった。なのに修羅場をかい潜ったなんてことは一切言わない。ホンマモンやなあ。
 おれは、コミさんの書く文章がたまらなく好きだ。以前、書評ブログで「田中小実昌の訳文は悪文なので、せっかくの原作が台無し」なんて書いていた方(一般の方)がいた。コミさんの文章は平明だけど決して、悪文ではない。筒井康隆は『創作の極意と掟』の中でコミさんの翻訳、ジェイムズ・ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』を上手な文章の例に上げている。
 コミさんは難しい言葉とか難しい漢字は使わない。普通の言葉でなんのてらいもなく綴っていく文章は、時として意味深で時として辛辣だったりする。そこがゾクゾクするほど面白いんだけど。そして、翻訳だってとても律儀なのだ。分からない言葉、固有名詞は徹底的に調べて決して誤魔化さない。ダシール・ハメット『血の収穫』を訳したときも1頁に出て来る「ビュートのビッグ・シップという酒場」という言葉に首をひねる。他の翻訳者は「モンタナ州ビュートの――」と書いているが、原作に「モンタナ州」という言葉はない。ひょっとして舞台になったサンフランシスコにビュート通りという場所があるのではないか。コミさんはサンフランシスコ在住の友人に手紙で訊ねたり、古い地図を調べたりして、ビュート通りの存在を発見する。もっとも、確信がなかったので、翻訳は「モンタナ州ビュート」にした。そして、後年、『ハメット』の著者、ジョー・ゴアズに直接電話して確認を取ったりもしている(でも、モンタナ州が正しかった)。

 そんな、コミさんが最初に訳したカーター・ブラウンの作品が本書『死体置場は花ざかり』である。コミさんはあとがきでおどかしがなくてかるいカーター・ブラウンの文体をべた褒めしている。平明な原作を平明な文体のコミさんが訳したのだから、最高の組み合わせだと思ったのだが――
 
いやはや。まさに文は人なり。女と酒に目がなくて、オースチン・ヒーレーを乗り回す、「おれ」ことアル・ウィーラー警部が、タフなおっさんではなく、丸顔で禿頭、訥弁の田中小実昌と重なってしまうのだ。コミさんが酔って女を口説いてる姿が浮かんでくると、いかなソフトとは言えハードボイルドの本書がコメディになっちまうんだよなあ。

 twitterでちらと書いたけど、大富豪で我儘なグラマーの双子姉妹、ピネロープ・キャルソープ、ブリューデンス・キャルソープがなんとなく叶姉妹(双子じゃないけど)に見えてくるのはご愛嬌。

死体置場は花ざかり (ハヤカワ・ミステリ文庫 43-1)

死体置場は花ざかり (ハヤカワ・ミステリ文庫 43-1)

創作の極意と掟

創作の極意と掟

血の収穫 (1978年) (講談社文庫)

血の収穫 (1978年) (講談社文庫)

僕にはわからない 中島らも

 インターネットなかりせば
 今回のエントリでは瀬戸川猛資を取り上げる予定で、そう予告もしたのだが。
 五十歳で夭逝した瀬戸川の数少ない著書の一つである『夢想の研究』を発掘(書庫雪崩)してしまったので、こちらも取り上げることにした。そんなわけで、ちょいと先に送らせてもらうことにします。
 
 さて今回の書斎雪崩発掘本は中島らも『僕にはわからない』。毎回同じことばかり書くようだが、そろそろ「中島らもって誰?」なんて言われる時代になってきたかな。まあ、ご存じない方は調べて頂くことにして勝手に進めさせてもらおうか。
 本作は中島らもの雑誌掲載エッセイを集めた本だが、その中に「花形文化通信(ミニコミ文化が盛んな京都で100号まで続いたフリーペーパー)」に連載されていた「悪人列伝」という記事がある。中島は「『悪監』について」という回でこんなことを書いている。

 昔、僕はイタリア製西部劇のマニアだった。中学生だった僕は、いつも日曜日になると、チャリンコをこいで尼崎市内の映画館をハシゴして、日に六本の洋画を見ることもあった。その頃はおりしもマカロニ・ウエスタンの大ブームだったので、日本で公開されたものはほとんど見たと思う。

 そして、『殺しが静かにやってくる』という作品を取り上げるのだが、

主人公はジョン・フィリップ・ロウで、悪役はクラウス・キンスキー。

 ん? と思ったが、突っ込み様もないので読み進めたら、なんと次章の「マカロニ悪役の謎」で早速訂正が入っていた。

 さっ、おあやや(ママ)読者におあやまりなさい。というわけでまずはお詫びである。前回、『殺しが静かにやってくる』のグレート・サイレンス役をジョン・フィリップ・ロウだと書いたが、何人かの読者からご指摘されたとおり、これは誤り。正解は、ジャン・ルイ・トランティニアンである。実は書くときずいぶん迷ったんである。ジョン・フィリップ・ロウもマカロニ・ウエスタンに出ているのだ。どちらも「へえ、こんな役者が」と驚いた記憶があるので、どれがどれだかわからなくなってしまったのだ。

 ああ、この気持はよく分かる。ついこの間まで、おれも原稿を書いていて、わからないことが出てくる度に、図書館や書店に資料を漁りに行ったものだ。今ならネットで検索すればなんでもないことなんだが。で、中島は続けて「へえ、こんな役者が」の例を挙げているのだが。

 日本人でただ一人マカロニ・ウエスタンに挑戦したのは仲代達矢である。『野獣暁に死す』という、実にしょうもない作品だったが、蛮刀を持った盗賊の首領に扮した仲代達矢だけは強烈なインパクトを与えていた。

 『野獣暁に死す』は1968年の作品。うーむ。これだってネットがあればすぐに分かることだけど、1969年には丹波哲郎が『五人の軍隊』というイタリア映画で日本刀を振り回しているんだけどね。さらに。

 謎といえば、劇場公開もされなかったくらいの駄作で『新・荒野の用心棒』というのがある。フランコ・ネロ主演なのだが、どうしようもない作品だった。この映画に、なんとパゾリーニ監督が出ているのだ。

 ヲイヲイヲイとつぶやきながら読み進めたのだが、ついに最後まで訂正はされなかった。マニアック過ぎる話題なので、読者からの指摘もなかったのだろか。
 なにがおかしいかというと、『新・荒野の用心棒』は東宝東和配給で日本公開されているし、主演はウィリアム・ボガートなんである。むろんのことパゾリーニは出演していない。
 中島が間違えたのはカルロ・リッツァーニ監督、ルー・カステル、マーク・ダモン主演の『殺して祈れ』のことなんでしょうね。こちらにも、フランコ・ネロは出演しておりません。
 いや、ネットがあれば簡単に分かったことだったのに、と申し上げたかった次第です。

僕にはわからない (講談社文庫)

僕にはわからない (講談社文庫)

夢想の研究―活字と映像の想像力 (創元ライブラリ)

夢想の研究―活字と映像の想像力 (創元ライブラリ)

殺しが静かにやって来る スペシャル・プライス [Blu-ray]

殺しが静かにやって来る スペシャル・プライス [Blu-ray]

野獣暁に死す [DVD]

野獣暁に死す [DVD]

五人の軍隊 [DVD]

五人の軍隊 [DVD]

殺して祈れ [DVD]

殺して祈れ [DVD]

さむけ ロス・マクドナルド

 大人になったらハードボイルド(瀬戸川猛資
 三十代半ば過ぎまで、ハードボイルドというものを敬遠していた。出会いが良くなかったということもある。最初に読んだのが、名作と言われていたチャンドラーの『プレイバック』。結論から言うと、フィリップ・マーロウに全く感情移入出来なかった。その気障な台詞を含め「なんだ。こいつは無教養なファイロ・ヴァンスじゃないか」と斬って捨ててオシマイ。それではと手に取ったのが不朽の名作とされるハメットの『マルタの鷹』。これはもうどうしようもない。事件そのものの概要が茫洋として分からないし、殺人の動機も、そもそもなんで私立探偵に依頼したのかも何が何だか分からない。後年、これまた名作とされるジョン・ヒューストン監督の『マルタの鷹』を見たのだが、原作に忠実なあまり、これまた茫洋とした映画で、ますます分からなくなってしまった。
 そんなおれにロス・マクドナルドの素晴らしさを教えてくれたのが、冒頭に引用した瀬戸川猛資だった。瀬戸川は著作『夜明けの睡魔』中の「大人になったらハードボイルド」で、おれ同様にハードボイルドが嫌いと表明し、しかし、例外としてロス・マクドナルドを挙げていた。そして、最高傑作として紹介されたのが、本作『さむけ』だったのだ。
 となれば読むしかない。一読驚きましたがな。アル中の暴力好きの探偵が、女口説いたり、バーボンラッパ呑みしたり、殴り合ったり、拳銃ぶっ放したりというおれの先入観(というより偏見だね)とはかけ離れた地味で霧に呑まれたように暗い物語。だから、つまらないかと言ったら大違いで、瀬戸川が言っている

全編に仕掛けられた大トリック、伏線の妙、二転三転のクライマックス、最後の驚くべき真相……。

 は掛け値なしの評価、文字通りの大傑作だった。そして、有名過ぎる最後の一行の言葉――

あげるものはもうなんにもないんだよ、レティシャ。

 は、生きてる限り忘れることはないだろう。
 実はこの書も書斎雪崩発掘本。あまりに衝撃的なラストの真相と名セリフで、今まで全く読み返さなかった。本の山から引っ張り出したついでにと読み直して驚いた。真相と犯人を知りながら読んでいくと、冒頭から、作者ロス・マクドナルドの仕掛けた罠がよく分かる。これはすごい収穫だ。ということで敢えて紹介した次第です。ロスマクの作品は後期の『一瞬の敵』『ギャルトン事件』『縞模様の霊柩車』『ドルの向こう側』『ウイチャリー家の女』など、総て面白い。
 なお、瀬戸川猛資については次のエントリで。

さむけ (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-4)

さむけ (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-4)

マルタの鷹〔改訳決定版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

マルタの鷹〔改訳決定版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

マルタの鷹 [DVD]

マルタの鷹 [DVD]

一瞬の敵 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

一瞬の敵 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ドルの向こう側 (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-10)

ドルの向こう側 (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-10)

きまぐれ体験紀行 星新一

 JALパックのころ

 書斎雪崩発掘本。
 昭和50年代の初頭、著者星新一ソ連ソビエト連邦)を始め、東南アジア、台湾、香港、韓国を旅した紀行文集。今なら、ソ連はともかく、学生だってもっと面白いところを目指すんじゃないかと言えるくらい、ごく普通の観光旅行なんだけど、当時はこれが一冊の本になるくらいだから、海外旅行はさほど一般的ではなかったのだろう。それでも、フィリピンでは著者自ら「心霊手術」を施術され、その体験を綴ってSF作家の面目を躍如している(?)。星新一の文章は練達ながら、そっけないくらい感情を抑制したものだから、この神秘体験も、転んで膝を擦りむいたところにバンドエイドを貼ったくらいの出来事みたいな印象しか受けない。貪欲にその真偽を追求するなんて野暮なことはしないのだ。
 台湾、香港では著名な占い師に運勢を占ってもらう。これまた、当たり外れはごく普通のように書かれている。例えば香港の鉄板神数(鉄板とは算盤のこと)阮雲山の占いでは

「父は死去、母は存命と出ている」
 その通り。さっき私は両親のうち一方がいないと答えたが、どっちとは言わなかった。
「兄弟二人のうち、一人が名を高める」
 弟より私の方が有名のようでる。
                〜中略〜
「奥さんはトリ年で、女の子が二人……」
 なにもかも、ぴたりぴたりである。奇妙な感覚が、からだを走った。まさに、ふしぎとしかいいようがない」

 と、その能力を高く評価しているのに、さらにもう一歩突っ込んで、自分の運命を占ってもらおうとはしないのだ。飛行機の時間の都合を理由に切り上げながら

 くわしい予測をされたら、いやな予告を具体的な形で聞かされたかもしれない。つまり、いいひけ時だったわけである。ひょっしたら、私は運がいいのかもしれない。

 未来を知るのが怖いのなら、最初から運勢なんか占ってもらわなければいいのにと思わないでもないけれど、このあっさりぶりがいかにも星新一らしいのだ。
 韓国には田中光二を伴い、韓国通の豊田有恒の案内で出かける。当時、おれの印象では、韓国に対する偏見はまだまだ強く、積極的に出かけるのはノーキョーのキーセン観光くらいだったのではなかったか。豊田有恒はそんな時代に、韓国の良さを積極的にアピールする稀有な存在だった。韓国は素晴らしいを連呼するうちに(旅行後の鼎談形式で書かれている)

 まあ、淵源がどこにあったって、こっちが千年の歴史で、あっちが一万年の歴史でもそれは別にいいと思うんだけどね。そんなこと言いだしたら最後はアトランティスかなにかに収斂することになるでしょう。
田中 例えばアフリカのオルドバイに収斂される。
豊田 オルドバイまでいくな。オルドバイにいく話は、書いちゃったな、おれ。

 星の口調は大人しいが、前後の雰囲気からぶち切れたことは想像できる。田中がなんとかとりなして、豊田は必死で誤魔化したという印象だ。
 面白いのは韓流ブームの魁だった豊田が、この後、反韓流の先駆けになったこと。いずれも10年以上早く、先見の明というか早すぎたというか。

性欲のある風景 梶山季之

 もう一つの李朝残影

 ああ、書き出しでまず悩んでしまう。
 そうなのだ。今は著者梶山季之が、どんな作家だったのかを説明しなければならない時代なのだ。でも、文学史を説くエントリではないし、説明したところで上っ面をなでるだけだろうからやめておく。このblogの趣旨は「書斎雪崩で再発見した書籍への想い」だし。

 おれにとって梶山季之の認識はエッチな小説を書く作家だった。とにかくやたらに売れていて、その名前を見ない日はなかった。餓鬼だったおれはエロ場目当てに梶山作品を立ち読みした。そうしているうちに、梶山が我が国におけるトップ屋ルポライター)の草分けと知った(おれも少し大人になっていた)。そして、トップ屋の世界を描いた『黒の試走車』を、遅ればせながら読み、その面白さに舌を巻いた。続けて『赤いダイヤ』や『夢の超特急』『夜の配当』を読んで、一気に大人の世界に浸かった気分になった。
 官能小説を低く見るわけではないが、梶山がかなり投げやりに書いていることは餓鬼でも理解できた。三島由紀夫自衛隊乱入、切腹事件が起きたとき、多くの作家が狼狽え、混乱して恐恐コメントしていた中で「オカマのヒステリー」と斬って捨てたのは青島幸男だったが、梶山は本業の中間小説の中で同様の意思表明をした。詳細は覚えていないけど、週刊誌に連載中の小説に突如、三島を思わせる人物を登場させ、その男がホモに強姦されるというような内容だったと記憶している。編集者もよく許したと思うが、それほど当時の梶山は売れっ子だったのだ。
 そして、おれがまだまだ餓鬼だった学生時代、梶山は急逝した。取材のための香港での客死だった。享年、45。45歳だったのだ。なんと大人だったことか。揺るぐことのない文士の風貌は今の作家に求もとむべくもない。だから、おれが、梶山の歴史小説に触れたのは、悲しいかな梶山の死後だった。
『性欲のある風景』は梶山の実体験を描いた短編小説。ところは日本統治下の京城(ソウル)、その日は奇しくも終戦の勅が発せられた8月15日だった。古今未曾有の発表が正午にあるとだけ聞かされていた中学生たちは、当然のようにその日も勤労動員の仕事に就くことになっていた。稚心を去れずにいた僕(梶山)は、遅刻ギリギリの常習者だったのに、一番に登校して「古今未曾有」を宣言しようとする。ところが同級生の優等生金本甲殖に、
「ひどく早いんだなァ。こんなの――古今未曾有と云うんだね?」
 と先を越されたために、計画を破棄し勤労動員をさぼることにする。さぼって映画を見ていたりしていた僕は、その日の夕刻、やはり同級生の久武から、日本が負けたと聞かされ、思わず殴りつけてしまうのだった。そして、現在(作品が書かれた当時)の日本で、戯れに友人と心理試験をしたときに、出された言葉は「終戦」だった。その言葉に僕は「牛」と答える。友人は笑ったが僕はそんな場違いの言葉の重要性に思い当たる。友人久武を殴りつけたもやもやした思いの正体は「牛」だったのだ。
 端正な短編ミステリを読む想いだった。「牛」がなにゆえ「性欲」に結びつくのか。そして、終戦(敗戦)直前の京城朝鮮人の風景。日本人の多感な少年はそんな環境でなにを想っていたのか。梶山31歳の傑作である。梶山の朝鮮を描いた作品には『李朝残影』がある。直木賞候補になりながら落選したという経緯があるが、これこそなんでまたと言いたくなる大傑作なのだ。この作が発表になる前年、梶山は『黒の試走車』を上梓していたから、選考会では、なにを今更という意見もあったらしい。酷い言い訳だ。
 後に梶山は古書業界に関わる『せどり男爵数奇譚』を発表した。当時「猟奇」を前面に押し出した書評にエログロイメージが付加されてしまったが、全くそんな作品ではない。主人公のせどり男爵・笠井菊哉は哀しいほど本に取り憑かれた人物として描かれていた。『性欲のある風景』『李朝残影』『せどり男爵数奇譚』耽美とも言えそうな、こうした美学が梶山が最も描きたかったものだったのではとも思えてしまう。
 凄まじい量の作品群に埋もれてしまってはいるけれど。

性欲のある風景 (河出文庫)

性欲のある風景 (河出文庫)

せどり男爵数奇譚 (ちくま文庫)

せどり男爵数奇譚 (ちくま文庫)

李朝残影 (講談社文庫)

李朝残影 (講談社文庫)

黒の試走車 (岩波現代文庫)

黒の試走車 (岩波現代文庫)

太陽の下、三死体  ジャック・サドゥール

 超超超意外な結末。

 映画であれ小説であれ、ラストにどんでん返しというネタばらしくらい悪質なものはない。ばらしている本人は具体的なことはなにも語っていないんだから許されると思っているところが更に悪質。この「ラストにどんでん返し」の一言で映画や読書の愉しみが半減したことがしばしばあるおれにとっては、人生の何%か損をしたような気分になってしまう。
 映画ならポール・ニューマンのあれとかローレンス・オリビエのあれとか、想像した通りの結末で、周囲で感嘆の声をあげている観客がなんとも羨ましく思えたものだ。
 なんてことを書いておきながら、超超超意外な結末のミステリーをご紹介するとしよう(ヲイヲイ)。

 物語の舞台は南仏の避暑地カシス。ヌーディストやカジノ客で賑わうこの街で三件の連続殺人が発生した。探偵役は若き美人警視ミュリエル。照りつける太陽の下、ミュリエルは果たしてこの事件を解決できるのか――
 フランス推理小説大賞の受賞作だから、夢オチのオカルトのというトンデモ結末ではない。しかし、こんな物凄いラストを誰が想像しただろうか。なにしろ、それしか書けない。何を書いてもネタばらしになるという類の小説ではない。意外な結末をささえる小説の骨子ごとひっくり返しているからだ。だからバカミスとネットで話題になりそうなものだが、ネットで検索してもそこに言及したものはない。というより、この作品を取り上げているサイトも全くと言っていいほど無いのだ。だからびっくりして大騒ぎしているのはおれだけなのかも知れないが。
 騙されたと思ってとも書きにくいが、究極の意外な結末を自分で読んで体験するのもいいんじゃないかなと思うのですね。お薦めはしませんが。

太陽の下、三死体 (新潮文庫)

太陽の下、三死体 (新潮文庫)